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東京の歴史

人口約1,400万人の大都市である東京は、かつて江戸と呼ばれていました。12世紀後半に江戸藩が作った江戸村(江戸藩は江戸という地域からその名を取ったと言われています)は、当時は小さな漁村でした。小さな漁村であった江戸村がどのような経緯で現在の東京へと変化していったのか。その歴史をまとめました。

江戸城と江戸時代

12世紀後半、江戸藩は江戸という村を作りました。その後しばらくして、1457年に太田道灌(おおたどうかん)が江戸城(現在の東京御所の一部)を築きます。1524年に北条氏の支城となり、1590年に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡。1590年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、徳川家康はこの城を居城とします。こうして、江戸の歴史は大きく変わっていきました。家康が居城としたとき城は一部を修理されただけでしたが、その後、2代目の秀忠、3代目の家光の時代に拡張・整備され、家光の時代の1636年に大きな城が完成しました。江戸時代は1603年に始まり、1868年まで続きます。

徳川家康と江戸

家康が江戸城を居城とした頃の江戸は荒れ果て、真水の確保も困難な状況に陥っていました。そこで家康は改革を始めます。当時、東京には小さな山がいくつもありました。その中でも神田山という大きな山を利用して海を埋め立てれば、国土を広げることができると考えます。山を切り崩し、海まで埋め立てたことで、デコボコだった江戸の街は、江戸城を中心に住居が建てられる土地を確保することができたのです。

さらに、真水が使えないという問題も、家康が井の頭池から神田上水を通して水を引くことで解決しました。1603年、家康が江戸に幕府を開くと、江戸の繁栄は確実なものとなり、1609年には15万人が住む大都市へと発展しました。小さな漁村であった江戸は、1721年には100万人の人口を抱えるまでに成長したのです。

江戸は日本の中心となり、200年以上にわたって「徳川時代」と呼ばれる太平の世が続きました。

江戸の文化

江戸時代以前は、京都や大阪などが文化の中心でしたが、江戸時代も後半に差し掛かると、江戸を中心とした文化が盛んになります。一番有名なものは歌舞伎でしょう。歌舞伎は1603年に京都で始まり、1624年に江戸で始まりました。

江戸時代には浮世絵も盛んになり、特に東洲斎写楽、歌川広重、葛飾北斎は有名です。相撲や落語も江戸時代に広がりました。江戸時代には多くの文化が花開き、日本の中心にふさわしい国家が形成されたのです。


東京都立図書館より

 


東京都立図書館より

 


東京都立図書館より

上の写真は「千代田稲荷神社」です。1457年に太田道灌が江戸城を築いたとき、城内に京都の伏見稲荷を勧請(かんじょう)。その後、1602年に徳川家康が江戸城を拡張した際に、城内から渋谷宮益町へ遷座(せんざ)しました。

日本の鎖国の誤解

江戸時代に日本は鎖国をしていたと言われていますが、完全に鎖国をしていたわけではありません。貿易制限政策として、オランダ、中国、朝鮮とのみ貿易を行っていました。外交は限られていたものの、日本はかなりの量の海外情報を入手していたのです。

港の開港


異国船図 北亜墨利加: 東京都立図書館

1853年、マシュー・C・ペリー率いるアメリカの軍艦が、江戸湾の入り口である浦賀沖に現れました。ペリーは大統領の親書を幕府に提出し、開国を迫ります。

翌1854年、再びペリーが現れ、日本は日米和親条約を結び、下田と箱館を開港することになりました。アメリカはさらなる貿易促進のため、日米修好通商条約(1858年)の締結を要求し、この2港のほか、横浜、長崎、新潟、神戸の5港が自由貿易で開港。また、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同条約を締結します。

江戸時代の終わり

薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎が合流し、薩長同盟を結成。2つの有力藩が結束したことで、「倒幕」運動が加速しました。1867年、将軍・徳川慶喜は朝廷に政権を返上。将軍は朝廷から与えられた「征夷大将軍」であり、この地位の返上により、政治を行う権限は朝廷に移ります。徳川慶喜が朝廷に政権を返上したことで、鎌倉時代から約700年続いた武家政治は終わりを告げました。

東京が新しい首都に

徳川慶喜が去った後、新政府軍は江戸に進出し、江戸府という行政区を設置しました。この時、京都から新日本建設にふさわしい土地に都を移そうという意見も出され、遷都の場所が模索されます。そのような中、江戸と京都で首都機能を分担し、京都を西京、江戸を東京とする案が出されました。この提案は承認され、1868年7月17日、首都は江戸に移されます。名称も江戸から東京に改められ、東京の歴史が始まったのです。

明治時代

明治時代に入ると西洋文化が本格的に実用化され、1872年の新橋-横浜間の鉄道開通でインフラが整備され、レンガ造りの近代建築が急速に増えていくようになります。

下の写真は、1872年当時の新橋駅の様子です。


東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図(国立国会図書館)

1878年、市街地として発展した地域を中心に、15区が新設され、最終的に現在の東京23区が形成されました。


1911の日本橋 東京風景(国立国会図書館)

関東大震災と戦争

日本の首都となった東京は、大正・昭和初期には戦時中の災害や地震でしばしば大きな被害を受けましたが、そのたびに復興し、やがて世界最大の都市にまで成長、発展していきました。1920年代には、東京の人口は370万人を突破。

1923年9月1日には、東京を中心とした関東地方に大地震が発生。いわゆる関東大震災が起こり、死者・行方不明者は10万人を超えました。火災も発生し、街は火の海と化し壊滅的な被害を受けましたが、当時東京の市長であった後藤新平は、新しい都市を計画し、見事に再建を果たしたのです。


関東大震災画報:写真時報(国立国会図書館)

1941年には大東亜戦争が始まります。焼夷弾が東京に降り注ぎ、木造家屋が密集していた東京は焼け野原になりました。1945年3月10日、東京は空襲で完全に破壊され、約10万人の死者が出ました。戦後、東京を中心に復興が始まり、1955年には東京の街は再び活気を取り戻します。

戦後復興から現代へ

高度経済成長期を迎えた日本は、1964年の東京オリンピック、新幹線の開通、高速道路の建設、東京の市街地の拡大などにより、急速に発展を遂げます。1980年代後半にはバブル経済により東京の地価が高騰しますが1991年にバブル経済が崩壊すると、いたるところに空き地が出現するなどの弊害が生じました。

1600年代まで小さな村であった東京(江戸)。震災や戦争で焼け野原になっても、そのたびに人々は復興に取り組み、現在も発展し続けています。

この400年の間に、東京の人口は約1,400万人にまで増えました。

日本の首都は東京ではない?

1950年の首都建設法では、東京が首都であることが明記されていましたが、1956年に廃止されています。その後の首都圏整備法では、東京都を含む東京周辺の広域を首都圏と定義していますが、首都と定義する条文は失われているのです。このため、「東京が首都である」と明言することはできません。

とはいえ、事実上も形式的にも東京が首都であり、日本政府の公式の見解も「首都が東京であることを直接規定する法律はないが、東京が日本の首都であることは社会全体として広く受け入れられていると考えている」ということになっています。