広尾の歴史

Poste date: 2022年8月15日

日比谷線広尾駅周辺は、大勢の外国人が集まる国際色豊かなエリアです。各国の大使館が多く所在するため警備の面からも安全性が高く、英語対応の施設も多いことから、外国人が住みやすい環境が整っています。広尾には 高級賃貸マンションや外国人向けの住宅 が充実している一方、日本人の富裕層の住宅地としても有名で、古くから格式と落ち着きがあり、広尾が現在のように国際的な街となった背景にはその歴史が大きく関わっています。ここでは広尾の歴史をご紹介します。

広尾の歴史:江戸時代


江戸名所図会 7巻. 著者 松濤軒斎藤長秋[他]

江戸時代の初期、江戸城からみて南西方面に位置していた広尾のエリアは『裏鬼門』と呼ばれ、原っぱが広がっていました。裏鬼門には寺などが多く建てられる場所ですが、武家、商人、農民などが加わるようになり、以後、大名屋敷や旗本の屋敷が建ち並ぶようになります。現在でも、大名屋敷の名前がついた坂を見ることができます。


江戸名所図会 7巻: 著者 松濤軒斎藤長秋[他]

下の浮世絵からは、広尾が広大な原っぱであったことがわかります。これは相模殿橋(四の橋)から現在の白金三丁目のあたりの眺めで、左側に見えるのは当時有名だった鰻蒲焼店です。


名所江戸百景 広尾ふる川(広重)

江戸時代末期には、麻布山善福寺が日本で初めてのアメリカ大使館となりました。


江戸名所図会 7巻: 著者 松濤軒斎藤長秋[他]

明治維新が始まると大名は各地に戻り、残された大名・武家屋敷は政府が接収し、当時の重鎮に対する報酬として与えられました。同時に貧しい人や、明治維新の賊軍を救済する場所も作られます。武家屋敷の跡地は大使館としても利用され、高台である広尾は彼らにとって、辛い湿気を避ける場所として人気を集めたのと同時に、複数の大使館を同じエリアに配置することで、警備を円滑に行うこともできたのです。


江戸名所図会 7巻: 著者 松濤軒斎藤長秋[他]

一部の武家、大名屋敷の庭園は公園として現在も開放されています。有栖川宮記念公園は、もともとは盛岡南部藩の下屋敷として使われていたものです。

広尾の歴史:戦後

武家屋敷は各国の大使館や政府の重鎮のものとして使われていましたが、それでも広尾の大多数は庶民層でした。戦後になり、アメリカ軍が大勢駐留し、日本の軍事施設などを接収し始めたころ、このエリアも多くのアメリカ人を受け入れるようになりました。六本木や赤坂、渋谷のエリアでも同様にアメリカ兵が多数駐留し、そのことにより、アメリカ兵のための飲食業が数多く登場します。同時に、欧米で流行している食べ物、飲み物、ファッションなども自然と取り入れられるようになりました。

このエリアの開発に伴い、土地を保有していた者は高層マンションの建設に協力することで収入を得て、資産家となりましたが、その反面その土地に残った者も多く、今でも裏通りには昔ながらの住居を見ることができます。

広尾は都心にありながら、喧騒を離れ、落ち着いた街並みと国際色豊かな風土を楽しむことができるエリアです。