六本木の歴史

Poste date: 2023年7月24日

現在はとても国際的なエリア、六本木には高級賃貸マンションや外国人向けの住宅が多く存在しますが、その昔は広尾と同じく原っぱでした。江戸時代には、飯倉六本木町と龍土六本木町という小さな集落のみがあり、ほとんどは武家屋敷や社寺だったのです。六本木という名前の由来は、6本の松の古木があったことと言われていますが、諸説がありはっきりとはわかっていません。1869年(明治2年)に麻布六本木町が政令されたのち、1967年(昭和42年)に、麻布エリア一帯を含む現在の『六本木』が生まれました。この記事では、六本木が現在のような街になるまでの歴史をご紹介します。

六本木の歴史:江戸時代、明治時代から昭和初期まで

江戸切絵図 麻布絵図(国立国会図書館デジタルコレクション)

上の図は、江戸時代の麻布の様子です。武家屋敷や寺院、神社が多いことがわかります。下は江戸時代の赤坂地区。こちらも広大な敷地の武家屋敷を見ることができます。


江戸切絵図 麻布絵図(国立国会図書館デジタルコレクション)

『麻布 一本松』からは、江戸時代の街の様子がうかがえます。


江戸名所図会 7巻 松濤軒斎藤長秋 著(国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸時代が終わり明治時代に入ると、武家屋敷などの広い土地は軍の施設として使われるようになり、六本木は軍隊の街へと変わりました。1936年(昭和11年)の二・二六事件の主力部隊、歩兵一連隊と三連隊も六本木が拠点でした。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、アメリカ軍の民間攻撃により、死者は約10万人以上、罹災者は100万人以上を出しました。また、港区が最も大きな被害を受けたのは、東京大空襲の後、1945年5月25日から26日にかけて行われたアメリカ軍による空撃、『山の手大空襲』でした。この時には東京大空襲を上回る爆弾が投下され、死者は約3,600人、罹災者は約56万人、そのうち港区周辺で被災したのは約11万人。街の大半が焼失してしまいました。

六本木の歴史:戦後から現在まで

戦後になると、これまで日本の軍隊が使用していた敷地がアメリカ軍によって接収されます。日本にとっては屈辱的とも言えるオキュパイド・ジャパン(Occupied Japan)と呼ばれるアメリカの占領下日本であった頃(1952年まで)、六本木にGHQが置かれました。当時はアメリカ人兵が多く、日本人はあまり近寄れなかったと言われています。その後、戦後の復興と同時に徐々に日本人が増えていきましたが、アメリカ人兵を相手とした飲食店やクラブの多くは残りました。

1959年(昭和34年)に米軍の施設だったものが日本に返還され、アメリカ人兵の数も減ると、『アメリカ』のイメージに憧れを持った日本人の若者たちが六本木へ行くようになります。さらに、テレビ局が六本木に出来たことで芸能人やアーティストの数も増えていきました。当時の人気俳優たちが集まるレストランやバーができるなど、繁華街へと変化。1960年(昭和35年)創業のイタリアンレストラン『キャンティ』には、アーティスト、音楽家、作家、映画監督、俳優、デザイナーなどの文化人が集まり、文化の発信地としても知られるようになります。

東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年) に地下鉄日比谷線が開通したことにより、さらに若者たちが集まるように。1970年代に入るとディスコや、ダンスができる喫茶店などが増え、新宿や渋谷同様、賑やかな街へと発展します。1958年(昭和33年)には東京タワーが開業。2000年(平成12年)には大江戸線も開通し、さらに多くの都市からの移動も便利になりました。1986年(昭和61年)に始まった市街地開発プロジェクトから17年の年月を経て、2003年に『六本木ヒルズ』が開業すると、繁華街のイメージから、最先端のIT系を中心としたビジネスの街としても変化。

若者が集まる街であった六本木は、現在ではファミリー層も増え、美術館、映画館、飲食店、オフィス街に居住地区など、さまざまなものがバランスよく存在する人気の街となりました。

六本木ヒルズと六本木交差点に隣接する広大なエリアを対象にした東京最大の再開発プロジェクト「第2六本木ヒルズ(六本木5丁目西地区再開発)」は、2025年度に着工し、2030年度の竣工を目指しています。